礼拝
友納 靖史
常盤台バプテスト教会 2021.6.13 主日礼拝 「悲嘆から希望の民へ⑤ 魂に安らぎを得る道」 友納靖史 牧師 【エレミヤ書6章9~16節(新共同訳 旧約 P.1186,1187)】
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏 奏楽者
招詞 司式者
祈祷 司式者
賛美 113番 わが魂たたえよ あまつみ神を 1、3節
聖書 エレミヤ書6章9~16節
特別賛美演奏 "It is well with my soul" 奏楽者
宣教 エレミヤ書講解説教シリーズ
悲嘆から希望の民へ⑤
「魂に安らぎを得る道」 友納靖史牧師
祈祷
賛美 540番 わが魂の慕いまつる 1、2節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 人生における「分かれ道(Crossroads)」に立たされることがあります。そのような時、私たちは何を基準として進むべき道を選び取ることが求められるのでしょうか。信仰の父・アブラハムは、共に旅していた甥のロトとそれぞれの一族同志の争いを避けるため別の道を進む決断をしました。その時アブラハムは「あなたが左に行くなら、わたしは右へ。あなたが右なら、わたしは左に行こう(創13:9)」と、相手に敬意を払い、かつ主なる神が全てを善き方向へと導かれると信じる信仰を表し、更に神より祝福されました。
預言者エレミヤは南ユダ王国が、既に滅びた北イスラエルと同じ二の足を踏まないよう語りかけます。間違った生き方を続けるなら、神の裁きは聞く者の耳を塞ぎたくなる悲惨な状況が起こることを預言し警告します。何よりも、人々が破滅への道を歩む途上において、「平和がないのに、『平和、平和』と言う」当時の祭司たち宗教指導者らを厳しく弾劾しました。エレミヤは、人々が人生を選び直す決断をするよう、こう告げます。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ(エレ6:16)」。残念ながら当時、人々はその言葉を侮り、耳を傾けませんでした。そして主イエスが来られた時も、そして今もです。しかし、時代を越えて、神の言葉を心に刻み、自らの「分かれ道」を正しく選びたいと祈り求める者には、神は心身を祝されるだけではなく、『魂に安らぎを得る』恵みを添えて与え祝福されます。
神の愛と神の厳しい裁きの両方を語り、人生の分かれ道を選び間違わないように問われる主イエスの譬え話があります(マタ25:31-46)。世の終わりの時、栄光の主として再びこの世に帰って来られるイエスは、羊飼いが羊と山羊を分けるように、それまで地上で生きた全ての人を右か左に分ける日が来ると語られました。実はそれは、私たちが地上に生かされている時に、自らの選択と決断とが既にその分かれ道となることに気づくためです。つまり主イエス(実は私たちの隣人)が、「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた(マタ25:35-36)」か否かである…と。しかも、それは「いつ、わたしたちはそんなことをしたのか?しなかったのか?」と、その時には気づかずに選び取ってしまっていたことを、主イエスの前に立つ日に初めて、全ての者が驚き戸惑うとさえ語られたのです。ここには、無意識に自らの都合で選び取っている自らの姿にハッとさせられます。ですから日々私たちはもっと主に祈り、何事も見抜く知恵と信仰を与えられる必要があるのです。
米国で成功した事業家H・スパフォードが、次から次に襲う人生の悲嘆の嵐の中において与えられた言葉が、後に賛美歌「静けき川の岸辺に」として歌われるようになりました。“It is well with my soul (邦訳「心、やすし。神によりて安し」)”は、いかなる苦難が襲おうとも「魂の底から、わたしは大丈夫(Well:健全・康し)です」と、不幸の荒波に飲み込まれてしまわないよう、そして神の永遠の命にある救いを忘れないように助けてくださいとの信仰告白なのです。
先週、天の御国へ帰られたO姉が残した証しを読み胸迫るものがありました。開拓伝道のため多くの教会員を常盤台より送り出し、教会が閑散として寂しさを覚えながら会堂掃除をしていたO姉に、初代牧師松村秀一師が明るく大きな声でこう語られたそうです。「教会はね、一人でも二人でも教会を思う人がいたら大丈夫なんですよ!」と。
私たちの罪の身代わり(犠牲)となるための十字架の道を歩まれた主イエス。そのお方を、キリスト・救い主と信じるとき、私たちは滅びではなく、復活という希望の道へと主は常に導いてくださいます。日々主に賛美を唱えましょう。